インターネット美術館‐top



      「 柏井 秀夫 ・ Profile 」
      
 




  昭和2年1月11日、高岡郡日高村本郷で父、勇二。母、量緒のもとに誕生。
太平洋戦争が勃発し、14歳で中学を中退。当時級長をしていたため皆の模範になるようにと、海軍に志願し、横浜の通信学校に入学。
卒業と同時に南方の最前線近くの航空隊に配属されました。

この部隊は後方基地から爆撃に飛来する友軍機を敵戦闘機から守ることと、我が軍最大の拠点ラバウル爆撃に向かう敵機を迎え撃ち、これを阻止する二つの任務を課せられた零戦部隊で、父は通信兵でした。
(悲運の名称山本連合艦隊司令長官が最前線の将校を鼓舞激励に訪れ撃退された終焉の島が後方に横たわっていました。)

毎日空襲を受けてはいましたが、暫くして本格的に爆撃を受けるようになり、何物も破壊しつくす1トン爆弾も投下されるようになり、こんな日々の続く中で至近弾の爆風で右耳の聴力を失いました。戦闘に加え、病気にもやられました。マラリアやデング熱に加え、アメーバー赤痢にも同時に罹患し、
40度以上の熱が2週間以上も続いたこともありました。


昭和21年4月に、19歳で帰国。 同期で同班の通信兵18名中、只一人の生き残りでした。 後に戦友たちの名簿を手に、多くの御霊を弔って一人でお四国参りにも行っていました。
戦争の美化は絶対になく、戦争ほど悲惨なものはないと常々言っていました。帰国後、しばらく父の手伝いをしていましたが、昭和22年4月。高知県伊野土木出張所に勤務することになった。 これが県庁勤務の始まりでした。

翌23年4月に佐川高校に定時制が開校され入学。知識欲に飢えていて戦後の新たな教育の素晴らしさを知り、さらに教育の大切さを知った父は,
日高村の青年団活動で知り得た友や向学心に燃える若者にも是非日下に分校を誘致してその機会を持ってもらいたいと思い、ガリ版刷りで希望者を募ってみると、50名以上の希望者がいて勇気百倍だった。

村当局に掛け合いましたが、全然話に乗ってもらえず、矛先を変え、佐川高校に側面から援助してもらうべく校長先生に直訴した時、その必要性を県議会で訴えてみなさいと助言され発表し、その後村も協力してくれ、25年4月に開校となった。
後に世の流れの中で、170名の卒業生を出し、51年3月に26年間の歴史を秘めて閉校となった。感無量であったと感想がありました。

26歳で井上幸子と結婚。母の父と父の母は兄妹で二人は従兄妹同士です。  既に結婚していた、父の兄と母の姉のお世話で夫婦になりました。

県庁在職中から山に登るようになり、その魅力に惹かれていった。 その頃から多くの写真も撮りためていった。 片方の耳が全く聞こえないため、いつも母と二人で日本各地に旅行し、登山にもよく行った。
62歳の時には、四国百山を夫婦で初踏破し、高知新聞にも取り上げていただき記念すべきこととなりました。
64歳の初秋には、夫婦でリュックを背負い、北海道の大雪山に1週間出かけたこともありました。重たいリユックを背負いかなり歩いたためか帰宅した時には、二人とも顔も足もパンパンに脹れていました。

自宅の庭や畑の世話をしながら暫く晴耕雨読の生活をしていましたが、神戸で震災があり、人々の心の慰めにと近所の方達と、イルミネーションをして大勢の方々に楽しんでもらえたことも思い出です。


 インターネット美術館-top       柏井 秀夫 トップへ